一乗寺鉄扇の概要

ここでは一乗寺鉄扇の歴史と変遷について、一乗寺鉄扇保存会の保有する資料を軸に、主にインターネット上で収集できる情報を付け加えるかたちでまとめてみました1

起源

一乗寺鉄扇の起源についてはわからないことが多いです。

500〜400年前、一乗寺でも念仏踊り2が始まり、これが起源のひとつとされることが多いです。一乗寺では「ハミダ踊り」と呼ばれていました。一乗寺郷土芸能保存会の資料によると、「ハミダ」というのはお経の南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)が唱えやすいように転訛したもので、

永禄10年(1567)の山科言継の日記によると、「此の日、一乗寺で、女房百人、男百四五十人の念仏踊りを見学する」と書かれています。当時の一乗寺村の人口から推測すると、全村あげての踊りではなかったかと思われます3

と書かれています。一乗寺の住民は昔から宗教心が強く、念仏踊りを良くしたみたいです。

一乗寺で踊られている「鉄扇」というのは、「ハミダ踊り」に続いて300年ほど前から踊られるようになったとされています。鉄扇踊りは、鉄扇という僧侶が伝えたとする資料が多いです。鉄扇は比叡山の僧侶であったという説と、一乗寺の僧侶であったという説があります。しかし、一乗寺(という昔一乗寺にあったお寺)は、1121年に比叡山の衆徒によって焼き払われ、再建されたが南北朝時代[1337-1392]に再び焼き討ちされ、再建されなかったとあります。つまり、14世紀末までには消失していたみたいなので、300年前[18世紀]に一乗寺の僧侶であったという説では辻褄が合わないような気もします。また、自分たちの地元のお寺を焼き払った延暦寺の僧侶の伝える踊りを受け入れる心情もよくわからないといえばわからないです。本当のところはどうだったのでしょうね。

同じくらいよく出てくるのが、江戸中期、元禄の時代に歌舞伎興行打ち上げの「都風流踊り」や祇園八坂の遊女たちを中心に踊られた「八坂の盆踊り」が近郊農村地帯の洛北一乗寺の里に伝わったとする説です。「風流(ふりゅう)」というのは侘び寂びの対極の、華やかで人目を惹くものという意味です。衣装や持ち物に趣向を凝らした都会の踊りには念仏踊りを駆逐してしまうだけの力があったのかもしれません。

実際、強固な念仏宗教に支えられ守られてきた念仏踊りは、その余興として踊られていた鉄扇に、いつの間にか主座を奪われてしまいました。理由としては、念仏踊りが単調なのに対し、鉄扇踊りは音頭が物語調で変化に富み、踊り手を飽きさせなかったからだとされています4。ネットどころか新聞さえなかったこの時代、さまざまな名所や名物、都市部で流行する能や浄瑠璃の名場面などが出てくる口説き調の音頭にはこの地区の人々にとっては新鮮なニュースのネタとしての価値もあったのでしょう。近隣の市原では「ハモハ踊り」という念仏踊りが今も続いています。

内容の特徴とその歴史的変遷

鉄扇踊りは現在、7月下旬の上一乗寺納涼祭と8月31日の八大神社八朔祭で踊られています。以前はこの他にも8月15日、16日、23日、27日にも行われ、青年団が主催し、周辺地区からも踊り手が参加し、一晩中踊り、随分賑やかだったと伝えられています。当時は「八朔踊」とも呼ばれていました。

鉄扇踊りは、櫓は立てるが、太鼓や鉦、笛や三味線と言った伴奏楽器は一切なく、音頭取りの歌声だけで、合いの手や掛け声もありません。能や浄瑠璃、歌舞伎などを土台とした歌詞で縁語や掛詞が使われたり、韻を踏んだりと面白く作られています。優雅な踊りで老若男女全員がおんなじ振り付けで踊ります。昔は念仏踊りと一緒に踊られたので、盆踊りのイメージがありますが、実際には西円寺の「大日さん」の日(毎月28日)に行われたり、「豊年踊」として9月以降に行われることもあったそうです。

しかし、そのような楽しげな日々に戦争の影が忍び寄ります。保存会の資料には以下のように残っていました。

こうして一乗寺の盆踊は、宗教色のあった念仏踊が消えて、残った鉄扇踊は大正デモクラシーに乗じて娯楽として踊られていたのであるが、昭和6年[1931年]満州事変が起こると、国策も増産・増殖に転換されて、”盆踊”は非生産的なものとして制約を受けるようになった。

まず終了時刻は午後十時にされた。次いで翌年は九時に繰り上げられた。鉄扇音頭は長文であるのに九時を区切りに途中でも止めなければならない。”尻切れトンボ”のように終る。踊り子の方も夏の日のこと、夕食を済ませてさあ踊ろうかと思ったらすぐ終了になる。これでは踊りの楽しみも魅力も無くなり昭和十年を最後として中絶してしまった。5

戦時体制に突入するなかで、踊りが制限される一方、さらに派手な江州音頭に駆逐されてしまったのではないかと指摘する文献もあります。別のページにあるように、京都北郊には多くの盆踊りがありました。しかし1930年代になると、

京都北郊のほとんどの地域において、盆踊りというと、江州音頭ばかりになってしまったのである。紅葉音頭で有名な左京区修学院でも、昭和 12 年(1937)頃までは紅葉音頭に合わせて踊っていたが、昭和 17 年(1942)頃になると、江州音頭に合わせて踊るようになっていた。6

上記の資料に一乗寺の名前が出てくることはありませんが、いずれにせよ一乗寺鉄扇は、

熾烈な戦争、終戦後の社会の不安定などで全く忘れられたものになっていた。斯くして六十年の間、踊が空白になっていたあとには、一家総出、近所の人々までが助け合った田植え風景は無くなり、田植えは一人の人間と一台の機械でまたたく間に済まされ、村中が総出でたいまつを持って比叡山へ雨乞いに行くといった行事も全く無くなってしまった。そして身のまわりには、民謡教室、ダンス、ゲートボール等々いっぱいで娯楽としての盆踊りの必要性も薄らいでしまった。その上、六十年前美声を張り上げ、十六曲目の音頭を謡いこなした音頭取りの名人も次々と故人となり、若さを誇った踊り子も老齢化してしまった7

のです。1980年代後半に、一乗寺の住民による復興活動がおこらなければ、そのまま忘れ去られてしまっていたことでしょう。それでも、多くの途絶の危機にさらされ、時代の変化にのみ込まれながらも、なお今日まで受け継がれてきたことが、一乗寺鉄扇のなによりの価値を物語っています。地域の記憶と人々の思いを静かに結びとめてきたその力こそが、長く続いてきた理由であり、これから先へと伝えていくべき誇りなのでしょう。

  1. 関連する資料を「一乗寺鉄扇関連文献集」としてまとめています。
  2. 念仏踊り(ねんぶつおどり)は、念仏を唱えながら踊る日本の伝統芸能で、さまざまな様式で全国に分布しています。踊り手と歌い手が分かれているものと、自ら念仏を唱えながら踊るものがあり、後者は踊念仏とも言います。13世紀頃に始まったとされています。
  3. 一乗寺郷土芸能保存会(刊行年不明)『一乗寺鉄扇音頭の歴史と踊りについて』p.17
  4. 前掲書 p.17
  5. 前掲書 pp. 23-5
  6. 中村治(2018)「京都北郊の盆の行事」『国立歴史民俗博物館研究報告』第207集
  7. 一乗寺郷土芸能保存会(刊行年不明)「一乗寺の『念仏踊り』と『鉄扇踊』」『一乗寺鉄扇音頭の歴史と踊りについて』pp. 23-5